原題:A Pale View of Hills
娘の景子を自殺で亡くした、イギリスに住む悦子の現在と、悦子がその昔長崎に住んでいた頃の知り合いであった佐知子とその娘の万里子との思い出の回想という2層構造で本作は形成される。
非常に解読の困難な物語。というのも、多くの小説で「伏線」と見られる記述が、ほぼひとつも回収されないままに終わりを迎えるからだ。
例えば主人公悦子の夫、二郎についての以下のような文章。
これは何か厄介になりそうな問題が持ちあがったとき、きまって二郎が使う手だった。
それから何年か後に訪れたあの危機のときにも、彼がこのときと同じ対応をしなかったなら、
わたしは長崎を離れなかったかもしれないのだ。
さらにこの小説に暗い影を落とす、連続幼児殺害事件と、万里子が悦子に繰り返し言う言葉。
「どうしてそんなもの持ってるの?」
「どうしてそんな縄持ってるの」
「どうして、縄持ってるの」
ミステリー小説なら完全に悦子が殺人犯、というオチに進むしかない台詞なのだが、そうはならない。
「あの危機」について語られることはなく、万里子が度々口にする、「私を連れて帰るっていう女の人」の正体も明かされない。
悦子が電車で目にした、「万里子をじっと見つめる30ほどの女」が誰であったのかも。
佐知子の話では、従姉の靖子は「佐知子とほぼ同年」であるらしかったのに、物語終盤で実際に現れたのは70歳前後の女性であった。さらに一番問題を投げかけているのが、「あの時は景子も幸せだったのよ」という悦子の一言だ。
長崎での幸せだったひとときのことを思って言う台詞なのだが、この旅行ではまだ景子は産まれておらず、悦子、佐知子、万里子の3人で旅行に出かけている。
佐知子はアメリカ行きを夢見ている女性であり、当時の悦子は万里子への影響を心配している。
景子が幸せにはなれないことを知りながら日本を去り、そして現実に自殺という形で景子を失った悦子。
やはりどうしても 佐知子=悦子、万里子=景子 という構図を思い浮かべてしまうが、悦子が脳内で佐知子という人物を作り上げてしまった、というようなファンタジー的なものではなく、佐知子は佐知子として存在していたのではないかと私は思う。
本作の登場人物は、全員が見事なまでにちぐはぐで噛み合わない。
広い世界にはばたきたいと思う佐知子、今の幸せを守っていきたいと願う悦子。
国や同胞への忠誠心と規律が教育に必要だと考える父と、戦前を思考や自由を奪われた、間違った時代だったと振り返る息子世代。
誰とも接点をもとうとせず、自分の世界に引きこもった景子。
結婚や出産が女の人生だということを否定して生きるニキ。おばあちゃんになりたい悦子。
台詞が数多くあるものの、本当にちぐはぐな会話が多い。疑問文に疑問文で返したり、全く検討違いの返事だったり。
もやもやした気持ちで読み進んでいくと、ふっと、誰もがひとりで生きていることに気がつく。
苦しみながら、時々は誤摩化したり、逃げたりしながら、どうにか自分なりの新しい時代をつかもうとしている姿が情景として浮かんでくる。
原爆からの復興をとげている最中である長崎の地を山のうえから見下ろしながら悦子は言う。
希望をもたなくっちゃ、みんながそうしなくっちゃ、こういうところだっていまだに焼跡のままだもの、と。
希望に満ちた物語では、全くない。むしろ不穏なまでの不安感や死の薫りに包まれた物語だ。
それにほんのわずかに、ひっそりと薄い光を遠くからそそいでみる、その照らし方がカズオ・イシグロの個性であり魅力なのだろうと思う。