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評価:
小手鞠 るい
河出書房新社
コメント:女性の「性」や「妊娠・出産」に真正面から向き合った、小手鞠るいのデビュー小説集。
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女性が書く、女性にしか分からない女性ならではの苦悩。
私はフェミニストなのかもしれない。
心のどこかで、現代に生きる女性は男性よりも絶対的に苦悩が多い、と信じている部分があるのかもしれない。
それでいてそう主張するのは恥ずかしいことだとも感じている。
それは自分がそう思っているのか、それともそういう女性の大変さを語ったときに少なからず注がれる男性からの冷たい視線が嫌だからだろうか。
「卵を忘れたカナリヤ」では、不妊治療が生々しく語られる。
「いつかは私も女だし子供を産むだろう」なんてことを盲目的に信じられているのは何故だろう。
子供がいない人生を想像したこともない。
しかしそれは本当に当たり前のことだろうか?
もし子供が産めない体だったとしたら?
その女性は女として、人間として「不完全」というレッテルを貼られても仕方がないのだろうか。
逆に男のほうに不妊の原因があったとしたら?
女ほどに周りから責められるだろうか。
女ほどに、子が産めないということに屈辱感と申し訳なさを感じるだろうか。
「うまずめ」という言葉は、子を産めない女、産まず女から由来し、石女という漢字を当てられる。
米も野菜も育たない石だらけの不毛な土壌を持った女ということだ。
旧来不妊は女性側に問題があるとされ、不妊が理由での離婚(家を追い出される)は正当なこととされた。今のデータによれば不妊の原因は男女で5分5分だ。
皇室でも男子を産むことが期待され、長年子供が出来ないと何か問題があるのかと疑われ、今の時代にしても皇室は継承者を長男の娘ではなく次男の息子に託した。
そして全く知らなかった、不妊治療というものの実態。
屈辱的な検査の数々と、増え続ける薬。その副作用。検査に伴う耐え難い痛み。
検査と服薬を繰り返しボロボロになる子宮。
それでも子供が欲しいと望み、治療を続ける女という生き物。
それは本能という言葉で片付けられるものなのか?
出産が自然の摂理だというならば、科学の力に頼り自分の体外で受精させられた卵を腹の中に戻してまで出産するということは自然の道理と言えるのだろうか?
「物語」としての評価はどうにも出来なかった。
どうやら小手鞠さんは色々と悩んだ末に、子供を産まない決断をしたということが後書きに書かれていた。
そのときの苦悩がとてもリアルに、そして熱情をもって物語に反映されている。
個人的に好きだったのは「玉手箱」。
子供が産めない体の女性が代理出産を頼んで子を持つ話。
科学って難しいよなあと思う。
生命の神秘というのは科学が進んでもまだ、きっとどこかに息をひそめて存在しているのだと信じたい。
本の感想ではなく、女の大変さについての話になってしまった。
男性が読んだら気を悪くすること間違いなし。