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評価:
伊坂 幸太郎
講談社
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あーまたこれは評価の難しい本。
やっぱり伊坂さんって村上春樹氏に似ている。
と思うのは私だけではないはずです。
村上春樹も、時々、私にとって評価の難しい本を書く。
文章力がずば抜けているがゆえに、とっつきにくい物語でも「物語に魅力がない」のか、「私の読解力が足りない」のか分からず、様々な角度から検討して、どうにかその作品を「素晴らしい」と言わなくてはならないような気になるような、そんな作品である。
本作は、「魔王」と「呼吸」の中篇2作からなっています。
しょっぱな未来党の犬養、なんて出てくるものだから歴史物語パロディ版かしら、なんて思っていたら、主人公が相手を意のままにしゃべらすことが出来るという超能力(腹話術)に気がつきます。しかも題名が「魔王」。これはきっと主人公が超能力を使って「魔王」=犬養と対峙する、そして本人が知らぬ間に「魔王」と化してしまう物語に違いない!!
と、出だしから暴走して読み進めたら、けっこうな勘違いで、すっかり肩透かしをくらしました。
何か、物語の全てが「伏線」のまま終わってしまったような、
張り巡らされた「伏線」が、たどり着く場所を見つけられずに彷徨っているような。
もちろん文章の節々には、さすが伊坂さんだなあと思わせられるフレーズがたくさんあって、ごきげんようおひさしぶりのせせらぎくんのこともそうだし、(これも村上春樹を連想させるが)「考えろマクガイバー」という台詞だとか。
「命令」と「群集」のふたつが、人を突き動かすという場面は恐ろしかった。
恩田陸の物語を思い出した。
作品の題名は忘れてしまったが、村人が「神隠し」に会い、返ってきた人々は何かを「変えられて」しまう。主人公たちはその異変に気がつき、なんとか「連れ去られない」方法を考案するのだが、その間にも次々と村人たちは作り変えられていってしまう。
確か主人公たちは人を作り変える工場のようなものを発見し、その描写がかなーり恐ろしいものだったのだが、村の中で変えられていないのがいよいよ主人公たちだけとなった時、正しいことと間違ったことがひっくり返ったのである。
この結末は私にとってかなりの衝撃であった。
しかし考えて見れば、この民主主義社会においては、正しいこととは多くの人々と同じであることなのだ。もし何かのきっかけで、周りの人が同時期にAからBの考え方へ移行したとすれば、途端にAは非難され、Bが正義としてもてはやされるようになる。
もちろんこれは、流行好きな日本人ならではのことなのかもしれないが。
長くなったが、とにかくこれと同じような恐ろしさが本作にも感じられる。
本当に正しいことは、本当に自分が望むことはなんなのか。
それを1人1人が、ようく考えなくてはいけないのだ。
インターネットが悪いわけでも、この情報社会が悪いわけでもないだろう。
しかし何も考えないでいれば、流されてしまいやすい状況が、今の日本に整っている。
小学生の読書感想文の「コピペ」が存在し、自分の頭で考える前にパソコンの電源を入れるような時代。
・・・と、話がそれてしまいました。
たぶん伊坂さんは、こんな社会問題を提起したいがために物語を書いたわけではないでしょう。でも、読者が勝手に触発されて考えるのは勝手ですよね。
「呼吸」は、「魔王」の5年後の話。
犬養は首相に、そして「魔王」の主人公の弟が、「異常なまでの直感」という超能力を手にします。彼もまた兄と同じように、群集の流れの中で立ち止まる存在なわけですが、「呼吸」に描かれるのは彼の戦いへの「エピソード」のみだ。
テレビを見なくても、政治のことを考えなくても、空を見上げて呼吸さえすれば生きていけることを知っている彼。
同時に、兄の声に耳を傾け、お金で世の中を動かせるとも考えている彼。
本来なら、この物語の続きにこそ、小説らしい大冒険が待ち受けているに違いない。
それと同時に、何も起こらずに彼の人生は終わるかもしれない。
まるで恩田陸さんの「図書館の海」。
私としては、小説家になった以上、できるだけ読者の納得のいく形を示して欲しいものだ。
想像力に乏しい私に想像し得ないような物語を楽しむために、
私は小説を読んでいるのだから。