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評価:
カズオ・イシグロ
早川書房
コメント:忘れられないヘールシャムでの日々。そこには確かに輝く青春があった。例え自分がクローン人間で、いつか臓器提供の使命を果たす日がくるとしても。ひとりの「人間」の生を描く感動作。
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「日の名残り」を読んで、こちらのレビューを書いていないことに気づき再読。
再読にも関わらず話の先が全く読めず、新しい物語として再び楽しめたのだが
自身のオバカサン加減を喜ぶべきか悲しむべきか悩みどころ。
さて、物語は主人公のキャシーが介護人として「提供者」の世話をしているところから始まります。
幾度か繰り返される、姿の見えない言葉たち(「提供者」「介護人」「ヘールシャム出身」)に、一体どういうことなんだろう?という疑問が頭をかすめたら、もうこの物語の中に引き込まれています。
その先はキャシーの子供時代の回想禄から、少しずつ物語の設定が明るみにされていきます。
クローンという題材を扱いながら、ここまで3次元的な、なんと言えばいいんだろう、人間的な?物語を私は知らない。
しかし考えてみれば(こういう物語に出会えてこそ成し得た思考のわけだけど)、「もし自分が誰かのクローンとして生み出されていたら」ということを考え、その結果に苦しむのは、生来「普通の人間」として生み出された私たちだけの特徴である。
キャシー初めヘールシャムの施設で育った彼らにとって、自分たちが「外の世界の人間とは少し違う」ということは何かにつけて示唆され続けてきたことであり、自分が誰かのクローンであり、いつか臓器を提供してその結果死ぬということも、特別に不幸せなこととは思えないのだ。
そうならなくてすむ可能性を見ない限りは。
親友のルースとの、そして彼女の恋人であり自らの想い人であるトミーとの、ヘールシャムでの思い出をひとつひとつ宝箱から取り出していくようにキャシーは語る。
人には生まれながらに決められた「運命」というものが、確かにあるのだと思う。
それは「戦時中の国に生まれた」だとか、「犯罪者の子供に生まれた」だとか、
「臓器を提供しなければならない」ということだったり、「いつかは死ななければならない」
ということだったりするだろう。
だがそれは「自由がない」だとか、「かわいそう」という言葉などと同義になることは決してないのだ。
カズオ・イシグロの作品を2冊(プラス短編1作)読んで思ったのは、作者は登場人物に入り込むのが本当にうまいということだ。
本人でなければ出来ない思い込みや勘違いをさらりとやってのけるため、読んでいて違和感がなさすぎてその勘違いになかなか気がつくことが出来ない。
本作においても、物語の最後になって初めて、クローンではない人間がクローン人間をどう見つめてきたかを伝えられたときの衝撃は、まるで自分がクローン人間であったかのような新鮮さをもって感じられた。
共感、とは違う。
自分とキャシーの間に大きく隔てられたものがあるこそ、それでいてキャシーの気持ちに同調していたからこその、切なさが本を閉じた後に大きく広がってくる。
例えば今、寿命が300年の宇宙人が目の前に現れて、私の頬に手を触れて「かわいそうに」と泣いたとしたら。
私はなんとも思わないだろう。
私は齢80まで生きれば大満足よ、たとえそれ以下でも。
そう思って変わらない毎日を生きるだろう。
だがしかし、ある日地球人が1人1人いなくなっていって、短い寿命の生命が私だけになろうとしたら?
ものすごい寂しさに襲われて切望するだろう。
私を1人にしないで、please don't let me go,
と。